FUKUDA SEMINAR
メディア文化論入門
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メディア文化論入門
歩きながら洋楽を聴くとゴキゲンになる。マンガを読んで、その世界に入った気になる。行かずとも、スマホの画面ひとつで旅をする。そんなふうに私たちは、日々あたりまえのようにメディアを通して世界と関わっています。けれども、それはいつ始まり、どのようにして「あたりまえ」になったのか?この問いにふと気づいた瞬間、きっとあなたの世界はもっと開かれる。「メディア文化論入門」は、そうした身の回りの文化を手がかりに、私たちの感覚や思考を研ぎ澄ますための講義です。単に情報を受け取るのではなく、日常にある映像や音の「かたち」を観察し、それがどんな意味を生み出しているのかを自分の目と耳で確かめていく。メディアという言葉の奥に潜む「世界とのつながり方」を体験的に学ぶ時間です。
では「メディア」と聞くと、きっと多くの人はテレビやインターネットなどの「マスメディア」を思い浮かべるでしょう。しかし、この講義ではもっと広い意味でこの言葉を捉えています。映画や音楽、アート、文学、さらには言葉そのものや身体の表現まで——いわゆる「送り手」と「受け手」の間に介在するもの、それらすべてが「メディア」です。たとえば、あなたが誰かと話すとき——それがスマホの画面越しであっても、直接向かい合っていても、その間には必ず「何かを伝えるかたち」が存在しています。その「かたち」を意識的に観察し、言葉にしていくことが、この講義の第一歩です。つまり、メディアを学ぶことは「情報」を学ぶことではなく、「他者との関係」を学び直すことでもある。福田ゼミでは、まさにこの広い視点から社会や表現を見つめています。私たちは、メディアのなかで世界を感じ、またメディアを通して自分自身を知っていく。その構造を少しずつほどいていく作業が、この講義の核心です。
講義の前半では、メディアの「意味」ではなく「表現」や「形式」に目を向けます。作品が「何を語っているか」よりも、「どう語っているか」。漫画や映像、音楽などを素材に、表現の「かたち」を丁寧に読み取る練習をします。普段、私たちは無自覚のうちにそうした「かたち」を受け取っています。この講義では、その感受性を「自覚できる」段階まで引き上げます。それによって、対象とするポピュラーカルチャーをより高い解像度で楽しめるようになる。漫画なら漫画、音楽なら音楽を、もっと「好きになる」ことができる。同時に、その観察の積み重ねが、私たちの日常的な視聴覚体験を支える「メディア」そのものへの気づきへとつながっていきます。
後半では、メディアの歴史的な変化に注目します。通信メディアの誕生や映像技術の進化などを手がかりに、いま私たちが生きている「メディア環境」が、過去からの連続の中にあることを学びます。「あたりまえの環境」は固定されたものではなく、時代や技術の進歩とともに更新され続けている。この感覚を持つことは、これから起こる変化を敏感に捉え、その意味を自分なりに考えられる力の基礎になります。さらに授業を進める中で、私たちが生きる現代の「メディア環境」が、いままさに経験している激しい変化を、理論的かつ歴史的な視点から捉える力も育まれます。
「メディア文化論入門」は、知識を詰め込む場ではなく、自分を取り巻く世界を「どう感じ、どう考えるか」を問い直す場です。私たちの身のまわりにあるメディアは、スマホやニュースだけではありません。他者との会話、流れてくる音、街の看板や広告までもが、私たちの感情や思考のあり方をかたちづくっています。また、過去のメディア環境を知ることで、「いま」の私たちの立ち位置も見えてきます。かつて主流だった表現や、すでに姿を消したメディアの習慣——それらをたどることで、私たちが「当たり前」と感じている価値観が、長い時間をかけて作られてきたものだと気づくのです。この二つを通して、自分と他者、そして時代との関係を考える力が育ちます。ここに私たちがメディアを学ぶ意義があります。
この講義を受けてから、たとえば映画を見るときに、「何を描いているか」よりも、「どう描いているか」に目が向くようになりました。ショットの取り方や、物語上の時代に合わせたフレーズなど、細部の選択ひとつひとつに、表現を感じ取れるようになったのです。そして、街を歩くだけでも文化の変化をたどれるようになりました。個人風呂が主流になった今でも栄え続ける銭湯。もうそこではタバコが吸えないのに、いまもマッチを配る珈琲屋。私は、そんな風景に出会うたび、そこにあったはずの時間や人々の営みの「かたち」を想像してしまう。この講義は、そんな「自分だけの面白い」を感じる目を育ててくれる場所です。