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百讀活動

「百讀(ひゃくどく)」は、自分の「好き!」を徹底的に拡大するための挑戦です。

知識を「自分の血肉にする」ための、深くて濃いインプット活動。

間違いなく険しい道だけど、達成感は段違い。誇らしく輝かしい、学生時代最後の研鑽

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「好き」が財産になる瞬間

福田ゼミでは、3年次の一年間で「基礎的な研究能力が身についた」と認められた場合に、論文とは異なる形式で卒業研究に取り組むことができます。ここでとりあげる「百讀(ひゃくどく)活動」は、小説・マンガ・映画・音楽など、自分の好きなジャンルのコンテンツを大量に鑑賞し、「ふつうのひとの百倍サイズの知識量」の獲得を目指すものです。

たとえば、ロックからソウル、HIPHOPやシティ・ポップに至るまで、様々な音楽ジャンルの歴史を吸収しながら、自分ならではのディスク・ガイドを作成する。関西中のミニシアターで古今東西の名作映画を見まくって、それでもあえて自分流の「B級ホラー映画100選」を作ってみる。昔からずっと読み続けてきたSF小説の読書量をさらに増やして、イチオシの短編ばかりをまとめたアンソロジーを作っちゃう………そんな活動です。

知識のサイズそのものを拡張することが目標なので、「作品の選定にはかならず何らかのガイドブックを参照する」とか、「いま・現在の作品だけでなく、一定の歴史的ひろがりを設けたうえで作品を選定する」といった「しばり」はありますが、ほんとうに〈好き!〉のパッションが大きい人、「もっともっと知識を得たい!」と感じている人は、そうしたものを「しばり」とは感じないはずです。

一例として、かつてある卒業生はアニメを研究対象として百讀に取り組みました。結果的に鑑賞した作品数は100本をゆうに超え、その成果はハイクオリティなZINE(=DIY的に自作した冊子のこと)として形に残されました。そこに綴られていたのは、圧倒されるほどの情報量と愛に溢れた解説の数々。出来あいのテンプレートを使わず、ひとつひとつ自分の手で組みあげられたそのページは、とても素人が手がけたものとは思えない出来栄えでした。

また、別の卒業生は「関西一円のカフェ紹介」を百讀の題材としました。まさに「自ら現場に足を運び、その空間の手触りを自分のセンスで確かめる」という福田ゼミならではのスピリットを実践し、自分の「好き!」と徹底的に向き合いました。結果として、身につけた知識や気付きの量に比例するごとく、芋づる式に疑問や興味が掘り出され、その分野におけるさらなる追求へと踏み込むことができたのです。彼もまたプロの雑誌さながらのZINEを制作しゼミ生を唸らせました。

そんなとんでもない成果でも、スタート地点はとってもささやか。「カフェ100店舗行ったらやばない?」とか、「アニメ好きやしやってみるか」といった、クラスでの雑談でぽろっと溢れた言葉。そうした種を自身の決意で育んで、自分ひとりの花を咲かせる際に欠かせない養分になったのは、この世界で「ものづくり」に携わっている様々な人たちが手がけてきた様々な「すごさ」を、自らの目で、手で、足で感じとろうとすることです。

「百讀活動」の最大の恩恵は、こうして「すごさ」に対するアンテナを研ぎ澄ませること。簡単にいうと、「目の前にあるものの感じ方・捉え方のレベルアップ」といったところでしょうか。他人の「すごさ」を正しく理解できるほどに本人が真摯に何かに打ち込み、そこで培った経験や知見が元となり、意識に変化が訪れシャープな観察眼が芽生える。先駆者である先輩方はまさにレベルアップを成し遂げ、学問としての「好き」を成り立たせるまでを実現しました。

これらの活動は人生に少なからず影響を与えます。たとえ研究対象やその内容が役に立たなくとも、卒業後にも生きる考え方や習慣、力が身につきます。それが人生の軸になるなんてことも。またあるいは「成果」を残したという達成感が、「すごさ」にたくさん触れたことによる気付きが、人生における向上心になるかもしれませんね。

めいいっぱい時間を使える学生だからこそできることもある。この百讀という「学問」はまさにその特権を存分に行使できる活動なんじゃないかと思います。

(*「百讀」活動は、京都芸術大学芸術学部・文芸表現学科の同名講義から着想を得たものです。)

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